SSブログ

RADIOでプラトニック [RADIO]

Fashion&MusciBook bayfm78
RADIO
BSプレミアムドラマ「プラトニック」
演技について語る。
20140613aDSCN1572.jpg
チクショウの謎が解けた。
TVドラマの一番の弱点それは放送回ごとに演出家(監督)が変わること・・・。
これがネックで連続ドラマに出演しない映画俳優さんがいるくらいだもんね・・・。
第1話2話(演出:大塚恭司)で登場人物設定が固まり前回との繋がりで3話4話(演出:長沼誠)へ進む。
その後第5話6話(演出:吉野洋)7話(演出:松原浩)となり最終回も松原さんで終了となると思う。
監督の違いは役者の解釈や集中力にも違和感の原因になる。
当然混乱は視聴者も巻き込む。
「チクショウ」では大波乱だった。
見る側の納得は「私」→「僕」→「俺」の一人称の変化が示すように本来青年は「俺」で生きて来た。
だから「チクショウ」もあり得るというのが見ている側で解釈でした。
その「解釈」の見解が現場の撮影時に変わることが現実にあるんだね。
あのシーン(シャツじゃないよ剛さん)ブラウスのボタンを外すシーン、第4話は「マグダラのマリア」がイエスキリストの足に香油を塗る話と重なるイメージとしてるから「昇天・復活」の解釈が視聴者にありました。
違うんだね・・・当初はリビングで浴室の怪我の手当をするシーンが「青年」の部屋に変わった。
「青年」の夜の自室に入る自体その時点で二人の会話にはすでに互いに愛ありきの設定に勝手に見えてしまう。
キリストのパートナー、マグダラのマリア説のダヴィンチコードが浮上する。
例え「青年」の部屋のドアが空いていたにしても、リビングだと「手当」になるが「青年」の部屋では・・・
リビングは沙良さんの縄張りで「青年」にとっては領域の違い感はあるはずです。
沙良の縄張りでブラウスを脱ぎ、下着姿で涙の告白は自分の生き方を伝える開き直りは生活空間だと凄みが倍増します。
娘の命を守る為にはやましいとは思ってない、誰にだって自分を差し出せる、「青年」の寝室で近づき体を預けようとする沙良に誘い以外感じないのも青年の部屋だからです。
心臓をくれるという自分にも倉田医師と同じ扱いなのだ「チクショウ」俺は呟く。
まだ「恋」と「好」きを意識していない前のシーンです。
拒絶するシーンは健全なジャニーズコードで明るいリビング向きだもんね。
大勢の思考が混ざると不自然な創りモノになり、それが演出する監督のスイッチによるのだとしたら見ている観客は大混乱です。

加賀まりこさんがスタジオパークのインタビューで答えていた
「難しく長い台詞は読み込み咀嚼(そしゃく)し自分の中へ取り込む、その上で自分の言葉で演技しないと伝わらない」

それを実行している様子がRADIOで語られたのは闘う堂本剛の「俳優」でした。
万引きストーカー体質でナレ馴れしい美和さんとの関係を疑う沙良さんの「トゲトゲ」しさは「青年」を愛し始めた序曲で、
「惨めでみっともない姿を見せることがヒント」というマーサ伯母さんの自論を体現する沙良さんに思えた。
この「ヒント」と言う曖昧な表現が沙良の場合「計算」に見えてしまうのが問題なのです。
疑わしいのです。
「青年」が思った「娘を助けたい必死なママさん」のハズが「女の大事なもの(貞操)を何とも思わな女」だとしたら
医者の次は「俺か」と思う方が自然で「チクショウ」とツブヤキたくもなる。
 
演出つまり監督が4人で同じストーリーを追いかけるのです。
悩むよね自分。
辻褄合わせにリピートするよね。
ただ吉田栄作さんと芽郁ちゃんのシーンでは現場のムードも無理が無い分良い感じです。
大旨視聴者には好評なのも解ります自分も大好きですから。
脚本家から見ても視聴する側からも役者同士の息の通じてる演技は見ていて気持ちが良く、通じるんだと思う。
NHK公式ホームページの「掲示板」でみつけたひと言。
 
「佐伯がいちばんまとも」

俯瞰でみるとそうでした。 
RADIOで現在進行形のドラマの話が聞けるて本日届いた会報にもドラマの記事。
レアな情報で満たされ土曜日の前夜祭、明日、10分拡大最終回。
あの野島伸司が脚本をイジった書き換えた。
 
堂本ファンの期待の大きさにビビったか?
沙良ありきだったドラマはいつの間にか青年の一挙一動に息をつめて見守ってます。
「青年」に名前を授けることも許さないで・・・。
叶うDSCN1628.jpg
会報にあった「理想のキャスティング」が叶うは
主演の二人ではなくドラマ制作の総合力が叶うなんです。
 
 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。