ジュリー [Ginger Yell]
発売中の雑誌を片っ端から読んでると見え隠れしてきたアーティストが一人いた。
ロビンが沢田研二ファンだと語り昭和な歌謡曲を取り入れていると。
沢田研二のソロ活動を華麗に創作した船山基紀のアレンジを採用したことも気に入る吉井さんでした
瞳みのるがリーダーのバンドと沢田研二を見つけ東京進出を勧めた内田裕也さん
その内田や尾藤イサオさんのバックで演奏をする新生タイガース。
その尾藤イサオの「悲しき願い」をリスペクトしてることも雑誌にはあった。
自分も初聴きでも感じ、お仲間さんも同じことを思ったなるほどのチョイスでした。
タイガースの沢田研二といえば
拓郎が広島から上京のおり唯一持ってきたのが沢田研二のLPレコードってコンサートで話してた。
妄想トークなのか「ナベプロを目指したが不採用だった」なんて話もしていた。
「LOVELOVEあいしてる」は日本のエド・サリバンショーを拓郎は想定し、きくちPには最初のゲストは沢田研二を要望するも、「若年層の視聴率」を考えMCにKinKiと同世代のアーティストがゲストに招かれ所在なげで困ってた。
沢田ソロ活動の1989年にEXOTICS(エキゾテックス)でバンドマスター&ベースの吉田建さんやドラムのポンタさんらをLOVELOVEメンバーに迎え拓郎もツアーメンバーに呼んでる。
「LOVELOVEあいしてる」のミュージシャンに沢田研二が多大な影響を与えたバンドメンバーが集結したということになる。
沢田研二はザ・タイガース
昭和のグループサンズブームを牽引してきたザ・タイガースが1968年3月10日日本武道館で単独LIVEをした初のバンドアーティストで1971年の解散コンサートも日本武道館でした。
武道館日本人初LIVEシーンは映画「世界はボクらを待っている」に使われ映画館で見た。
京都出身の若者がベンチャーズでエレキに目覚め、武道館でを森本以外の4人がビートルズを生で見る。
その2年後の武道館LIVE演奏は俯瞰のアングルでファンの間を走り抜けるシーンは今でも鮮明に覚えてる。
大阪でインディーズでファニーズとして人気を得て内田裕也さんの誘いで上京、バンド活動は裕也さんがジャズ喫茶中心でロケンロールで、TV映像はナベプロのM副社長がプロデュースでした。
グループ名はTV出演直前に大阪で見つけたから「ザ・タイガース」って。。。
沢田の美貌が王子さまアイドルとしてスターダムへ押し上げた
初の主演映画は銀河系星のプリンスを助けるという途方もないファンタジーでした。
映画のタイトルが「世界はボクらを待っている」だったのは救いだね、主題歌の「銀河のロマンス」だとしたらあの日本武道館のシーンは記憶の闇に消えたと思う。
彼の名は
ジュリー
ジャニーさんの姪っこの名前でもある。
出身の岡崎中学は平安神宮さんのご近所です。
1985年沢田研二ソロ活動開始
歌唱力、美貌でセーンセーショナルはロビンや拓郎が夢中になるのもわかる。
昭和のダンディニズム、だね。
KinKi Kidsのデビューのファーストコンサートをこのハコにしたジャニー社長はこの会場の初海外アーティストがザ・ビートルズで日本バンドではザ・タイガースだったからかな。
(ただし、1965年の武道館初の音楽演奏はスティーヴ・エトウのパパ、筆曲家衛藤公雄の凱旋リサイタル)
世界のアイドルと日本を代表するアイドルの殿堂が日本武道館選ですKinKi Kidsへのはなむけとして選ぶ理由があったんじゃないかなと思うのです。
同じく先輩バンドに世界に通用するように名前を「TOKIO」と名付けホームグランドを日本武道館にしたことも同じく社長の彼らヘの「愛」に感じる。
プロデュースに武部さんと建さんレコジャケイラストは篠原ともえちゃんとCDのテーマは拓郎大好きなワイハ
1968年日本人アーティストで初単独LIVEをしました。↓
1966年初のロックコンサート、50年経ちました、JUDO ARENA柔道アリーナです。
おかげでその名も世界の「BUDOUKAN」外国人アーティストの殿堂となる
- アーティスト:ザ・ビートルズ
- 出版社/メーカー: インディペンデントレーベル
- 発売日: 1994/11/30
- メディア: CD
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